時間は過ぎ去るが、「時」は悠久である。「時」は、けっして消えゆかない。今の求めに応じていつでもよみがえる。時間は生者の世界において刻まれ、「時」は彼方の世界を流れている。「時」を感じるとき、理性の働きだけでは不十分である。また、五感もそれを認識することはできない。「虚空はるかに一連の花 まさに咲かんとするを聴く」とあるように、虚空の彼方に花が咲くのを「聴く」ような場所に立たなくてはならない。
この表白を読んだ教団の実力者が「異安心」の疑いがある、と言ったと渡辺は、同じ講演で伝えている。「異安心」は、浄土真宗の言葉で異端を意味する。その烙印を押された者は宗派から追放される。だが、法然は天台宗からみれば「異安心」であり、親鸞もまた、法然亡きあとの教団から見れば「異安心」である。時代を開く者はしばしば異端者の姿をして顕われる。
ー 涙のしずくに洗われて咲きいづるもの ー
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万葉の時代、人は、万物に霊が宿ると信じていた。山川草木はもちろん、土地には地霊がいることを疑わなかった。この時代を生きた人間にとって、「見る」とは、単に肉眼で対象を捉えることではない。むしろ、向きあうものとの「霊的な交通を意味するものであった」と白川静は書いている。国見とは、その地を視察することである以前に、その土地に暮らす、人間を越えるものへの畏敬の表現だったのである。想像にも、「見る」ことの原意は生きている。
想像はimaginationの訳語ではない。東洋にふるくからある表現である。白川によれば紀元前に書かれた「楚辞」に「旧故を思うて以て想像す」とあり、五世紀の詩人謝霊運にも「昆山の姿を想像す」との記述があるという。「相に相(すがた)、相(み)るの意があり、心のなかにその形容を想いうかべることを想像という」と白川は書いている。想像するとは、ありありと像が立ち顕われるほどに想う行為を指す。
ー 創造する想像 -
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6月27日誕生日を迎えた息子へ送る本