他人の災難、他人の死を、自分の災難、自分の死として想像しないというのは驚くべきことだが、これは間違いなくメディアのせいである。自分は画面のこちら側で、安全に他人の災難を見物していられる。その他人の災難、生きるの死ぬのも、画面の上ではお笑い番組と同一平面である。全然リアリティがない。すぐに忘れる。自分は災難とは死ぬまで無縁、死ぬのもずっと先のことと、こう錯覚してしまうのは当然なのである。
~
何で死ぬかも関係ない。生きているまさにここに死は存在しているという根源の事実である。生のあるところに死はあるのだから、生きているということは、常に必ず危険なことのはずなのである。何が起こるかわからない、何が起きてもおかしくない。あり得ない、ということは、ないのである。
こう思って生きていると、他人の災難がとても他人事とは思えなくなる。私があの人の災難に遭わなかったのは、たまたま私があの人ではなかったからだ。あの人は私でもあり得たのだ。こういう感じになってくる。他人に起こり得た災難は、すべて自分にも起こり得ることだ。自分にだけはあり得ないということは、ないのだ。
ー 災難の心得 ー p61~
ABOUT ME