文箱 ”言の葉の落とし文”

落とし文 「ニングルの森」に耳を澄まして  ”さくらいろ”さま

「ニングルの森」に耳を澄まして

北海道・富良野を舞台に描かれたドラマ「北の国から」。
あのドラマがずっと好きだった。
テレビは普段殆ど観ないのに、毎回のスペシャル版も欠かさなかった。
なんたって、主人公の兄妹とまさに同じ年齢だったのだから…
彼らの成長は、自分の辿ってきた道と重なるところも多かった。

その「北の国から」の作者、倉本聰さんが書いた童話、「ニングルの森」(集英社)というのがある。

このお話に出会ったのは何年も前。
初めて読んだ時にもとても感じるところが多かったが、久々に改めて読んでみたらまたまた引き込まれ、色々考えさせられた。

ニングルとは北海道の自然に棲む小さな先住民族で、彼らから視た人間社会への疑問が、十遍の挿話にして描かれている。

聞いた話によると、この“童話”は、環境配慮に意欲的な某電力会社が「当社のPRとなるような作品を」と倉本氏に依頼し、描かれた物語だそうである。
しかし、作家の想いは依頼側の意図を超え・・、自らの内にある「文明への問いかけ」が注ぎ込まれたのだろうか。

あとがきに、その想いが綴られている。

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 あとがき

 色んなところで色んな人にきかれました。
「ニングルって本当にいるンですか?」
 その都度僕はいつも困惑し、何て答えようかと瞬間迷い、結局正直に答えてしまうのです。
「います」と。

 本当はこのようにニングルのことを公の場でしゃべるべきではないのです。
それは殆ど二十年以上になる、この山のニングルとの付き合いに於いて、いわば禁止事項ともいえる事柄なのです。
 ニングルたちの重大な掟に、「知ラン権利」と「放ットク義務」というのがあります。人間社会では今、「知る権利」という言葉が流行し、本当は知らない方が楽なのに、知る権利、知る権利とマスコミ識者がわめきたてて、知りたくないことまで我々は知らされ、その為余計な怒りや悲しみで連日へとへとに疲れ果てるのです。その点ニングルたちが掟としている「知ラン権利」と「放ットク義務」は、中々大した哲学だと思います。
 じゃあ何故その掟を破るかたちで僕がニングルの暮らしの様々を、こうして公にしてしまったかというと、人の暮しがどんどん異常な方向へ進行してしまって、人間そのものが自分たちの生き方を、その中心にある座標軸を見失ってしまったように思えるからなのです。
 本文の中にも書きましたが、ニングルは決して妖精などではなく、北海道の森にわずかに生存する、いわば先住民族です。僕の尊敬するアイヌ民族の学者、萱野茂先生のアイヌ語辞典によればニンとは縮む、クルとは人の意味で、ニングルとは縮んだ人、即ち小さな人間の意味になります。
 ここに著した十遍の挿話は、いずれもニングルが僕にぶつけてきた人間社会への素朴な疑問を、お子様たちにも判るように、できるだけ平明に文にしたものです。
 これらのお話を童話ととるか、もっとリアルなものと考えるか、それはみなさまの御自由です。
 でも、時間があったらどうかこの話を、お子様たちに声に出して読んでみてあげて下さい。多分お子様はあなたたちより、もっとニングルに近い次元で、これらの話を理解できると思います。いかに世の中が進歩して我々がそれに巻き込まれようとも、純粋なものたちの心の中には人間本来のDNAがまだしっかりと息づいている筈ですから。

二〇〇二年初夏 富良野にて
                                 倉本聰

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挿話第一遍は、「太陽」である。
物語の冒頭を少しだけご紹介。
                        

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 1. 太陽

 「人間のことを少ししゃべろう」
長(おさ)が珍しく口を開いたので、ニングルたちはしんとしました。外は音もなく雪が降っています。十勝岳の奥の奥にあるこの太古の原生林は、今はすっかり雪の中で、時折そっと通過して行くキツネやエゾリスのほか動いているものは何もいません。彼らがこのあたりを通過する時、そっと足音を忍ばせるのは、ここらがニングルのテリトリーだからです。
ニングル。
このあたりの山奥にそっと棲んでいる、体調わずか十数センチの小さなヒトのことを言います。妖精なんかでは決してありません。れっきとした小さな先住民族です。昔は里でも目撃されました。しかし人間が森を伐り始めて段々姿が見えなくなりました。殊に昭和の三十八年頃、北海道にブルドーザーが入ってきて、彼らの姿はぴたりと消えました。
 「人間のことを少ししゃべろう」
長が重々しく又言いました。
小さな石炉に薪がバチバチはぜています。
そこは、地元の言葉でガッポと呼ばれている、巨木の中に出来た大きな空洞です。こういうところがニングルの家なのです。
 「人間は夜も起きている」
長がそう言うとニングルたちはびっくりして一斉に唾をのみました。
言い忘れましたが長の年齢は今年で二百八十三才になります。
勿論彼らは自分の歳など数えているわけではないのですが、彼らは生まれた時親が木を植え、その木と一緒に成長するので、自分の木を見ていれば大体どれ位生きたかが判るのです。通常ニングルの年齢は百八十才から二百五十才といわれますから、さすがに長は最長老で、人間の暦になおしますとおよそ江戸時代の中期からずっと世の中を見てきたことになります。
 「夜でも起きてるって、起きて何しとる」
 「人間は闇でも目が見えるンか!」
 「ちがうちがう、そうではない。人間は闇では目が見えん」
 「なら何しとる!」
 「することがないぞ」
入り口にたらした枯笹のすき間から冷たい風がヒュウと入って、長は鼻水をずるっとすすりました。
 「人間は太陽を作っちまったんじゃ」
ニングルたちは今度こそ息をのみ、あんまり長いこと息を止めたので一人のニングルはひっくり返りました。
 「その太陽は欲しい時出てくれる。闇も照らすしあたためてもくれる」
もう一人のニングルがひっくり返りました。
誰かが小さく呟きました。
 「人間ってすごい!」
表の森に夕闇が迫っています。
 「だけど、だけど-」
若いニングルが顔をまっかにしてきました。
 「夜起きとって何をするンだ!人間はそんなにやることがあるのか」
 「いい質問だ」
長が重々しく答えます。
 「わしにも判らん。しかし、あるらしい。そこが人間の判らんところだ」
いつの頃からかニングル社会では人間社会をのぞくべからずという厳しい掟が定められていて、それがこのニングルの平和な暮らしを存続させるのに役立って来たのでした。
 「長は見たのか!」
 「いや、見ちゃおらん。風に聞いた」
 「風はどう言った。夜起きて人間は何してるンだ」
 「色んなことだそうだ。若いもんたちは飲んだり食ったりさわいだりしとるらしい」
 「眠くないのか!」
 「そりゃ眠いだろう」
 「眠りゃぁいいのに」
 「大人は何してる!」
 「男の大人は仕事をしとるらしい」
 「夜になってもか!」
 「やっとるらしい」
 「どんな仕事だ」
 「金(かね)を数えとる」
 「金って何だ!」
 「むずかしいことをきくんでない。だから人間のことは判らんのだと言っとる」
急に不機嫌な顔つきになって、長が大きなクシャミをしたので、ニングルたちはみな黙りました。知らなくてもいいことを自分たちが聞いてしまったことを反省したのです。
 「あの、もひとつきいて良いもんかな」
中年の、といっても百才はとっくに超えているのですが、髪の薄いニングルがおずおずと声を出しました。
 「何じゃ」
 「人間の作っちまったその太陽ってもンは、一体どの位の大きさなんかな」
ウッと、小さく喉が鳴ったのは、長が返事に困ったからでしょう。
 「ま、色んな大きさのがあるんでないかな。こんくらいのも―こんくらいのも」
 「一つでないのか!」
 「うん。ひとつでない」
 「太陽をいくつもこさえてしまったンか!」
 「風の話では殆どの人間が夫々みんな、自分の太陽を持っとるらしい」
ゲエッ!!
あまりの驚きに目玉の飛び出した奴までいて、ニングルたちはもうパニックです。
 「太陽っていやあ わしらには神様だ!」
 「それを一人ずつ持っとるンか!」
 「ちゃんと祭りをしとるンか!」

                
                           (つづく)

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人間社会を垣間見て騒然となるニングルたちが 投げかけてくる疑問の数々。

挿話は、“太陽”に続き、お札・文字・森の音・土地・命の木・時間・水滴・山おじ・鮭。
それぞれに、築かれてきた文明に向けられた問いがこだましている。

環境問題は奥が深いのだろうが、こんなにも素朴な問いが私たちを立ち止まらせるなら、まさに倉本氏のお言葉通り、まずは子ども達に尋ねてみたい。

ニングルの想い、伝わってくる?

ううん。言葉で聞くべきじゃないかも知れない。
感じていることを言語化するのは、大人でさえ難しいのだから。

純粋で豊かな心が捉えるもの。その瞳の奥にきっと見えるに違いない。

まずは童心に返って、ニングルに寄り添ってみよう。。。

夜のひととき。
静かな心の森に、耳を澄まして。

(photo kazesan)


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Gaju。管理人suzukiです。 管理運営担当しております。 愛猫たち(東風Cochiと南風Kaji)のときの過ごし方から 日々学ぶ今日この頃です・・・。