じっと聴いて じっと待って
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『ニングルの森』挿話第四編
4. 森の音
「目を閉じてじっと耳をすましてごらん」
父親のニングルが子供に言いました。
父親の歳は百八十才。子供はまだ幼く四十前です。
「さあ、そのまま指を折って聞こえたものを数えて行くんだ」
「・・・・・」
「あわてなくて良い。ゆっくりでいいよ」
「・・・・・」
子供の手の指が一つ折られます。
それからもう一つ折られます。
しばらくしてもう一本折られました。
風がそよそよと梢を渡って行きます。
木洩れ陽がやわらかくあたりを包んでいます。
そのうちすやすやと子供の鼻から、かすかな寝息がもれ始めました。
目を閉じてじっとしているうちに、あんまり気持ちが良いものですから子供は眠ってしまったらしいのです。
でも父さんニングルは何も言いません。ニングルたちは急がないのです。
一時間たち、二時間たった頃、子供ニングルは半分眠ったまま、ゆっくり四本目の指を折りました。そして五本目もつづけて折りました。
片手の指を全部折ってしまったので、今度は別の手に移動してそっちの指も次々に折って行きます。しばらく眠ったおかげで耳の感覚が研ぎすまされたらしく、色んな音が聞こえ出したのです。
両手の指を全部使い終わると、子供ニングルは今度は右足の親指を折りました。それからしばらくたったあと、今度は器用に右足の人差し指を折りました。
みなさん、一寸やってみて下さい。手の指を折って数を数えるみたいに、みなさん足の指も一本ずつ折れますか?ニングルたちは時々こうやってゲームみたいなことを親とやるので、二十才近くなる頃には足の指もまるで手の指みたいに一本ずつ折り曲げることが出来るようになるのです。
森のはずれに太陽が沈んで、あたりはすっかり夜になりました。子供ニングルはまた寝息を立て父親ニングルはじっと待っています。ニングルの寿命は三百年ぐらいありますから時間はたっぷりあるのです。急ごうなんてものは一人もおりません。
深夜。どこかでヨタカがキョッキョッキョッと啼きますと、眠ったままの子供ニングルの右足の指が一本、静かに折れました。
父親ニングルはそれを見て「これで十三だな」と呟きます。こういうゲームを夜通しやっていると、暗闇でも段々目が見えるようになってくるのです。
それからまたどの位たったのでしょう。眠ったままのニングルの足の指が、何かの音を聞きつけては無意識に何本か折れました。
森の向こうが白み始め、湿った土から朝の匂いがゆっくり立ち昇り始めて来ました。その匂いに反応して子供ニングルの鼻がピクリと動きました。その時早起きのキビタキが、どこかでチチチと声を上げました。すると眠っていた子供ニングルは、最後に残っていた左足の小指をキュッと曲げポッカリ目を覚まして言ったものです。
「指の数だけ音が聞こえた」
父親ニングルは大きくあくびをし、「えらいぞ」と子供をほめてやりました。それからもう一つあくびをして「じゃあ、聞こえたものを全部言ってごらん」とやさしく子供にたずねました。子供は一本ずつ指を伸ばし、思い出しながら挙げて行きます。
「風の音」
「うん」
「風はミズナラの葉っぱをゆすった。トドマツの葉っぱは音をたてなかった」
「いいぞ。それから?」
「沢の音」
「うん」
「それから淵で魚のはねた音」
「なんの魚か判ったかな?」
「判んなかった」
「あれはヤマメだ。ヤマメのはね方だ。それから?」
「白樺の小枝の折れた音。ヤチネズミが落ち葉の上を走った音。父さんのオナカが鳴った音」
「う」
「リスがクルミの木をかけ上がった音。それから次の木へ飛んだ音。スズメバチが1疋飛んでった音。蚊の羽音。何かの鳥が虫をつかまえて虫がチチッて泣いた音。」
「何の鳥が何の虫をつかまえた?」
「鳥は・・・多分、アカハラだと思う。虫は・・・蝶々かな?」
「鳥はアカハラだ、よく出来た。虫は蝶々じゃない、カミキリだ」
「そうか。それからもう一度父さんのオナカの鳴った音」
「一度聞こえた音は二度言わんでいい」
「だけど全部音が違ったもん。最初はグウで二度目のはグルルルルだった」
「判った判った、よく出来た」
「それから夜になって・・・。ヨタカが啼いた。それから・・・。しばらくして山のうんと奥で、雨の降り出した音がした」
「うん、よく判った」
「狐がすぐそばを歩く音がした。鹿が遠くを走る音がした。テンの足音もした。熊があっちの沢のふちを歩いた。沢の音が少し大きくなった」
「山奥に降った雨が流れてきたンだ」
「それから、楊(やなぎ)が目を覚まして、サアーッて水を吸い上げ始めた。楊の木が水を吸い上げる音が聞こえた。それから小鳥が目を覚まして啼き出した」
「そうか、よし、えらい。良い耳になったな」
父さんニングルは満足そうに、子供の頭を撫でてやりました。
こうやってニングルは遊びみたいにしながら、聴覚をどんどん鍛えて行くのです。何しろ普通では聞こえないものがこうやってどんどん聞こえるようになると知識はだんだん拡がって行きます。
匂いに対しても敏感になりますし、足の指だって一本一本、折り曲げることが出来るようになるのです。
ニングルたちの、これが教育です。
本もテレビもコンピューターもないニングルたちの森の暮らしでは、難しいことは必要ないし充分倖せに暮らして行けるのです。
それが証拠に今この朝の森で、さしこんで来た陽の光をあたたかく受けながら、スヤスヤ眠っている親子の顔は、何と倖せに輝いていることでしょう。彼らの頭には、進学も出世も宿題もなんにもないのです。
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現代社会は 目覚ましい発展を遂げて、本当に便利になっている。・・と思う。
でも、それでも満たされていない感じ。で、常に最良を求めている。
そして、色々な価値観や立場などの違いの中で、求めている様々が複雑に絡み合っている感じ。
よく、“成長(進化)するために生まれてきた”という言葉を聞く。
ということは、“生まれたての時期は 未熟だ”ということだろうか。
確かに、未熟な面は色々ある。
そして、月日を重ねることで成長していく自然を備えている。
でも、私には、なんだか。。。
月日を重ねていくことで失うものが とっても大きく感じられて・・。
正直言って、ちょっと寂しくなることもある。
それは、若さや、瑞々しさが衰えることでの哀しみとちょっと違う。
外面的なものではなくて、内面のものなんだろうと思う。
私の偏見かもしれないけれど・・。
でも、人様のことや世界のあれこれはさておき、私自身のことを顧みると、これはもう明らかに間違いなく言えることだ。
私は子どもの頃の方が今よりずっと感じやすかったし、色々なことをじっくり考えてた。
当然、世間体なども気にしていなかったし、自分の立場なんていうのに拘りもなかった。
・・・と 思う。
もっと言えば、「私」というものからの視点で捉えているものが少なかった。
年齢を重ねる中で、「両親の娘」「学生」「OL」「妻」「母」「嫁」など、色々な立場としての自分を強く意識するようになった。
それは当たり前と言えばそうなのだけど、それらが強くなってきたが故に失った視点の大きさを感じる。
そして、最も素直な気持ちとして、
失ってしまったと感じるものが、本当はすごく大切だったように思えるということ。
だから 時々ちょっと寂しくなるんだろうなと思っている。
ニングルは 人間より寿命が長いという。
でも、だから急がないでのんびりしているんだろうか・・。
それだけじゃないよね。きっと。
「知ラン権利」「放ットク義務」。
これ、私、本気で羨ましい。。。
知らないでいたい、放っておいてほしい、・・そういうことがいっぱいあるんだもの。
でも、現代のあれこれや人間社会の多くが悪いものだとは言えないし、私はその中で数え切れないほどの恩恵を与って過ごしているのだから、感謝こそすれ、批判するのも気が進まない。
ああ どうしよっかな。
どうしたらいいんだろうなぁ。
そんなわけで
悶々と 日がな一日ボーッとしてたりすることもある。
大事な大事な社会問題が山積みになっているというこの時代において、
私は不届き者だろうか(–)。
でも、これからを担う子どもたちが、どうか持って生まれたはずの豊かなものを、できるだけ失わずに生きてゆくことがかないますように。。。
失ってしまった先輩としての願いかも。
教育って やっぱり大事なんだろうな。。。
我が子に詫びたい母であります。(TT)
難しいことだけど きっと本当はやさしいはずの「待つ」ということ。「聴く」ということ。
じっと聴いて待っているニングルにあやかり、今ここに満ちているものを感じて穏やかに過ごしていたいと思う。
待てない。。。って、本当に失うモノが大きいと思う。。。
そういえば 安積先生のご講演、「待てない時代の只中で」っていうお話だった。
なにゆえ
草はうつくしきか
みずからのすべて
みずからによりてつくられしゆえなり
なにゆえ
にんげんはうつくしからぬか
みずからならぬもの
みずからのうちにあるゆえなり
いっぽんのくさのうるわしさは
ひとつのほのおのうるわしさにかよう
くさの葉の
そのかたちは
つくりぬしの
こころながるる そのすがたなり
(八木重吉)
(photo kazesan)