言葉はときとして無力だ。
荒木や先生の奥さんがどんなに呼びかけても、
先生の命をこの世につなぎとめることはできなかった。
けれど、と馬締は思う。
先生のすべてが失われたわけではない。
言葉があるからこそ、一番大切なものが俺たちの心のなかに残った。
生命活動が終わっても、肉体が灰となっても、物理的な死を越えてなお、
魂は生きつづけることがあるのだと証すもの___、先生の思い出が。
先生のたたずまい、先生の言動。それらを語りあい、記憶をわけあい伝えていくためには、
絶対に言葉が必要だ。
馬締はふと、触れたことがないはずの先生の手の感触を、己れの掌に感じた。
先生と最後に会った日、病室でついに握ることができなかった、ひんやりと乾いてなめらかだったろう先生の手を。
死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、
ひとは言葉を生み出した。
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