中原中也も、雨ニモマケズの宮沢賢治も、私が少女時代の詩人や歌人たちは、生というものに、真正面から立ち向かい、言葉の持っている力を、すべて出しつくして表現していたのだなぁと、しみじみ感じます。
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私たちの世代からではなく、大昔から、みんなそれぞれ、悩み苦しんできた。人のやることというのは、なにがほんとうにその人のやるべきこととしてふさわしいのか。
どういうのが一番いいのか。
いろいろな考え方があるから、文学などの芸術がある。なにもなかったら、文学も芸術も必要ない。
芸術というのは、一種の、人間のそうした感情なり、整理の一つですから。
昔、ニューヨークで知り合った大学教授が、日本の文学に魅せられていて、これほどの歌を詠む人が日本の女性にいたのかと驚いた、と私に話したのは、平安時代の和泉式部の歌でした。
もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞ見る
和泉式部は、蛍が飛んでいるのを見て、自分の魂が体から出て行って、飛んでいるように思えたのでしょう。はっきりとした心境ではなく、自分の魂が出て、さまよっているような気がちらっとしたのかもしれない。
アメリカの大学教授は、蛍に重ねて詠んだ、心というもののふしぎさに、感じ入っていました。
一首の歌が、彼の心をとらえている様子に、私は、文学などの芸術は、ほんとうに人間を動かす力があるのだと思いました。芸術の力というものはすごい。
一千年も前に、一人の女性がつくった歌。それが語り継がれ、書き写され、芸術となって残ってきた。感動した人がいるから、残っています。
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あかつきの美しい空を眺めて、美しいと感じる。そんな自然に、芸術は絶対にかないません。
人間がつくるものは、たった一本の線すら、雨なり雪なりの自然がつくりだす線に、届くことはない。そういうものだと、私は思います。
ー 若い人へ ー p97~