冬籠もりの涙
冬籠もり。
お外の寒さに、いつになく曇る窓ガラス。
何を想って、涙顔・・。
じっと見ていたら、自分の目とひとつになっているようだった。
物思いにふけっているひととき、何故かこんなふうに溶け合っている。
感じている何か、流れてくる何か、溢れてくる何かが、
遠くのせせらぎのようでもあり、ここに触れている温もりのようでもある。
茨木のり子さんの詩が浮かんだ。
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(存在)
あなたは もしかしたら
存在しなかったのかもしれない
あなたという形をとって 何か
素敵な気がすうっと流れただけで
わたしも ほんとうは
存在していないのかもしれない
何か在りげに
息などしてはいるけれども
ただ透明な気と気が
触れ合っただけのような
それはそれでよかったような
いきものはすべてそうして消え失せてゆくような
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最愛の夫に先立たれた詩人の想いが、
珠玉の詩に綴られて、慎ましやかに遺されている。
湧き上がる想いを言の葉に乗せることは、時に困難でありながらも、
きっと救いである。
ゆらゆらと、何処かに何かが漂う感覚の、幻のようなすべてが、
現実と呼ばれる連なりの狭間に、揺れている。
確かであるはずのあらゆる存在が、まるで綱渡りの危うさの上。
一瞬にして不在に変えられてしまいそうな、その触れ合い。
儚さは、深くも浅くも押し寄せてくる。
朝、目覚めて、同じように繰り返す日常の、ふとした時々に、
何やら玲瓏たるものの訪れ。
ため息混じりの混沌に、戸惑う存在。
この、私という・・。
共に暮らし、呼びかけてくれる家族の存在と触れ合って、
不思議な揺らぎも遠退いていく。
・・と、思っていたけれど、
“人は、他者の眼差しによってはじめて確かな自分がいることを感じ、
異なる他者に出会う場に立てば、相手の眼差しによって自分がその都度更新され、
自己イメージにも揺らぎが生じる”・・?
あぁ、本当に、揺れてるんだな。さしずめ、いつも。
ここに居ても、あちらに逝っても、いのちという存在。
私も、
おはよう、おやすみなさいと、交わし合う言葉の余韻に抱かれて、
触れれば温かい、いつもと変わらない家族を想い、
こうして揺れている冬の日。
つれづれに優しい趣がある。
取り柄のない私に、こんなにも穏やかな幸せ。
とちってもとちっても、許してくれる思いやり。
いつだって、訪れるものは優しさを携えている。
そう言えば、茨木さんの詩に「落ちこぼれ」というのもあった。
“自嘲や出来そこないの謂”とされてる「落ちこぼれ」を、
“和菓子の名につけたいようなやさしさ”と言う詩人。
あぁ、なんて素敵なんだろう。
そうだ、私も「落ちこぼれ」。
出来そこないで、落ちこぼれのこの存在に、
願わくば、和菓子のような甘さも含んで、
ずっと、そばに寄り添っていたい。
なんだか、そう思ったら、嬉しくなった。
窓の外、相変わらず寂しげなお空の下で、
寒さに身震いするお花たちがいる。
落ち零れて、私、
あなたの心に棲む露になる。
冬籠もりのひとときに、涙。
そっと、こぼれ落ちた涙。
Photo:kazesan