言の葉となりて我よりいでざりし
あまたの思ひ今いとほしむ
この歌は、思いが言葉にならないことを嘆いているのではないだろう。言葉とは、別のかたちで生きている、言語の奥に、姿の異なるコトバがあることを告げている。
「いとおしむ」とは、どこまでも相手を思うことである。いと惜しむことである。「いと」とは、何かを限りなく行うさまを指す。「惜しむ」とは、思いを尽すことができないことに悲しみを覚えることを意味する。古語で「おし」は、「惜し」とも書くが「愛し」とも書いた。
愛惜という表現があるように「いとおし」は「いと愛し」と同義である。
情愛が深くなるから、掛ける言葉が見つからない、そうしたことはある。皇后は苦難を生きる人びとを前にして、何度もこうした心持ちをいだいたのではなかっただろうか。
伝えなくてはならないことはある、しかし、言葉だけではどうしても伝えられない。だから、赴き、寄り添い、手を握る。思いは言葉を経ることなく伝わり、伝わってくる。
このとき、皇后は、言語とは別の姿で人びとの思いを身に宿す。この一首は、託された市井に在る無数の生を愛しむ歌でもある。
「かなしむ」、と皇后が詠うときもある。暖冬で雪が少ない。しかし、ある夕方、つかの間にふる雪を皇后は「かなしむ」と詠う。
暖冬に雪なくすぎしこの夕
つかの間降れる雪をかなしむ
雪が少ないことを悲しむのではない。もちろん雪を見て、感情に流されているのでもない。
ここでの「かなし」は、現代人が表面的な感情の揺れ動きを示すときに用いる「悲しみ」からは遠い。
「かなし」と皇后が詠うとき、そこにはいつも、多層的な情感と情愛がある。
雪に乗って人びとのこころの奥にあるかなしみが皇后のこころをふるわせる。このとき雪は、皇后と人びとを結ぶ窓になる。
ー 読む 皇后と愛しみが架ける橋 - p241~