一日一文 365日

一日一文 191. 若松英輔「神秘の夜の旅」より

「うしぐるま」に乗っているのは彼ではない。彼自身は「仄かにのせてわが曳ける」一人の男である。車に乗る「やつれしひと」とは、かつてゴルゴダの丘で、世界を贖うために死んだナザレのイエスと呼ばれた男ではないか。彼もやつれていた。「うしぐるま」が意味するのは、生そのものだろう。また、ここに描かれているのは、肉体と魂の物語かもしれない。「やつれた」魂を肉体が「曳く」。越知は、この詩が誕生したときのことを、こう記している。

その頃興味をおぼえはじめた古今集を読んでいる途中で、偶然に心に浮んだ戯れの一節にすぎないのだが、私としては、はじめて自己の存在の深部にふれることのできた詩なのである。それまでやってきたことには、まだ何一つ確かなものがなかった。否、本当に確かなもの、たよりになるものがどんなものか知らなかった。そういう私は、この詩ではじめて、自分自身の声を聞きわけることが出来、そこに覗いている内心の告白ーーそれは、私には、何か疑いようのない或るものを明かしているように思われたーーに驚かされたのである。(「能と道化」)

「告白」に「驚かされた」という受動の表現は、その時の出来事の現況を、そのまま伝えているのであろう。それは前触れもなく、突然起こったのである。詩を書きたいと願う人間が、詩人なのではない。リルケが言うように、詩人は「委託」と呼ぶべき秘儀を通過しなければ、何ら語る言葉を持たない。その人物が書いた詩を通じて、何者かが自らを顕すとき、彼は詩人になる。

ー越知保夫とその時代ー 詩と愛 p44~


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