天才に限ったことではないだろう。我々凡人においてもまた、為されなければならないことだけが、為されなければならないのではないか。おそらく、世の人は、為さなくてもいいことを為しすぎる。あるいは逆に、為さなければならないことを、為さなすぎる。凡庸とて、ひとつの宿命であろう。己が魂の必然を見究めることが、己が人生を十全に生きることである、そういったことが、ありありとわかる瞬間でもある。
生とか死とか思われているものは、そう思われているほど確かなものではじつはない、自分と宇宙というのも、そう思われているほど別のものではなく、あんがい同じようなものなのである。地上の時間は宇宙の時間に比べてあまりに短いという言い方を、しばしば人はするけれども、そんなことは決してない。地上の時間と宇宙の時間は、この人生の、魂の最深部において、明らかに相交わる。相交わったそこをこそ努めて生きようとすることが、地上にて永遠を生きるというそのことだ。そして、地上にて永遠を生きたそういった人は、その意味でも、やはり死ぬということがない。なぜなら、そういった人々と我々とは、その永遠の時間において、幾度も出会うことになるからである。
与えられた仕事や与えられた境遇は、凡人から天才まですべて違うけれども、そんなことは、本当は、どっちでもいいことなのだ。与えられたそれらを、より善く生きようと努めること、結局は、それしか、我々にすることはないからである。
「悠々として急げ」という古い銘の、いちばん大きいほうの意味は、そんなところではなかったろうか。(新潮45/1998年1月号)
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Ⅳ 魂の<私>をやってゆく
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