他の悲しみがわかるということは、
他の悲しみの情に自分も染まることである。
悲しくない自分が悲しい誰かの気持ちを推し量り、「理解」するのではない。
本当に他の悲しみがわかるということは、自分もすっかり悲しくなることである。
「他の」悲しみ、「自分」の悲しみという限定を超えて、
端的な「この悲しみ」になりきることだ。
「理で解る」のではなく、情がそれと同化してしまうことである。
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脳の中に閉じ込められた心があって、
それが環境に漏れ出すのではなく、
むしろ身体、環境を横断する大きな心がまずあって、
それが後から仮想的に「小さな私」へと限定されていくと考えるべきなのではないだろうか。
_第三章 風景の始原 「わかる」ということ_p138~
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