「探す」という以上は、探しているものの何であるかを、人はあらかじめ知っているはずである。それが何であるかまったく知らないものを、人は探すことはできない。探している以上は、探しているものを知っているのである。しかし、自分を探している人が探しているのは、自分が知らないはずのその自分ではなかったろうか。あらかじめ知らないはずの自分を、どうやって探すことができるのだろうか。
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知るためには、考えなければならない。「自分」とは探すものではなく、考えるものなのだ。探すためにさえ、その何であるかについて考えられていなければ不可能である。自分とは、何であるか。
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考えれば考えるほど、自分とは何であるかわからないというのはまったく本当なのでる。それは、捉えようとするほど捉え損ねるというネガティブな意味では決してない。自分とは何であるのか決してわからないということが、はっきりとわかっているからこそ、そのわからなさをわからなさとして楽しむことができるのである。複数の自己が居る、あるいは自己とは重層的もしくは流動的なものである。このように了解して存在することは、きわめて自由な心地ではなかろうか。
ー 本当の自分はどこにいるのか -p168 p176
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