とても傷付いた人が身近にいた。
その人は、何をするにも大変なエネルギーを要するように見えた。本当はもう何もしたくなかったのだと思う。生きていく意味すら見失っていたに違いない。傷付いた心は二度と元のようには戻らない。それでもその人は、毎日最低限の物を口に入れ、出口の見えない絶望の中をひたすら生き延びようと努めていた。何とか今日一日だけを耐えていこうとするその姿に、破られても破られても巣を張り続ける蜘蛛のような、生物としての根源的な正しさと美しさとを、私は強く感じた。
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何かに懸命に耐えている人が、働いたり、掃除をしたり、風呂に入ったりというごく当たり前の営みをする時、そこには実に莫大なコストがかかっている。何も特別なことではない普通の営みが、これほど美しく見えることはない。病苦に苦しむ寝たきりの人が吸い飲みから水を飲んだり、精神を病んだ人が懸命に玉葱を切ったりする姿の中にも、紛れもない美がある。彼らの行為は、余分なものが全て剥ぎ取られた、純粋極まるギリギリの営みだからである。
もちろん人は、耐える必要のないことまで我慢する必要はない。
しかし耐えるしか選択肢がない場合、当然のことながら耐える以外に取るべき道はない。そして耐え忍んでいる時、人はそんな自分の姿が美しいなどとは夢にも思わない。しかしそれは美しい。生物本来の在り方という意味において、その姿は間違いなく最も根源的で純粋なものだからである。
ー 耐える ーp86~
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