人は、「悲」のちからとはたらきによって、はじめて小さな「我」を超え、他者と共にある世界を作ろうとする。
大拙と西田を結びつけていたのも「悲」の経験、あるいはその悲しみを生きぬことで感じ始めた「大悲」だといってよい。
大拙の書から感じるのも「悲」であり「大悲」である。大拙が好んで書いた「無」も「大」と似て、その仏教的な意味は、何かが無いことではなく、単なる「有」の彼方の世界を意味する。「無量寿経」に記されているように、人々が悲しむことなき世界を実現するのが、阿弥陀如来の本願であり、菩薩の悲願なのだが、私たちは毎日、耐えがたいほどの悲願に直面している。そうした日常をめぐって大拙は次のように記している。
悲劇は永遠につづく、従って弥陀の本願、菩薩の悲願も、また、永遠に悠久なるものである。(「文化と宗教」)
終わらないのは悲しみの出来事だけではない。それを共に生きようとする菩薩の悲願もまた尽きることがない。悲しむ者は、自分の気が付かないところで阿弥陀仏に近づいている。悲しみこそが、人間を苦しみから救い出す。それが大拙の「霊性」の基盤だったのである。
p5~
ABOUT ME